死と楽になることと個人の願い
親友が辛そうにしている様子をよくみる、僕自身本当に気が狂って死にそうになっていたが。とにかくセミナーが一つ終わるとまだましになっていた。
私事だが、私が一回生の時高校時代の友人が死んだ。本当にあっけなく死んだ。
小説やゲームや物語では主人公や登場人物の近親者はよく死ぬ。死は大きな変化であって、ドラマ自身を激しく揺さぶるポイントなのだろう。キャラはその時いろいろな感情をもつ。友人の死、仇敵の死(あるいは敵討ち、殺害)、親の死、子供の死。兄貴分の死。師匠の死。
キャラはその死を乗り越えてより強くなったり、死によって苦しんだり、狂ったり、呵責に苛まれて心を軋ませたり、喜んだりする。
私は親友の死を経て、どんな感想を抱くのだろうか。
親友の死を受けて、まず食べていたものを置いて、「えっ?」と数え切れないくらい言った。次にまず嘘だと思うのだが、文面からどう見ても嘘ではない。次にネットで検索した。最初はひっかからなかったが、探し方を変えて発見した。名前があった。
ありえないありえないありえないあり
をぐるぐると回って歩いて歩くこともできず座って文面を見てネットを見て座ってえっ?ありえない。
はあ〜。
おかしいだろ。
を繰り返した。
その後、他者と話して、まず、親友は何か、うん、死んだ。ことが事実として、というか文字としてあった。
もう話せないのか。
「もう話せないのか。」
これが僕の思ったことだった。
葬式、通夜、その後、そして今も、思っていることはそれが根幹だ。
誰かが死ぬと、その人とはもう話すことができない。
これが僕の死の捉え方だった。
その友人の死を受けて、僕自身の中にできたことや友人と話したこと、高校の同期と話したこと、先生と話したこと、はとてもいろいろあるし、非常に重大なことだが、僕がその親友を尊重したいこともあって公開しているネットでは書かない。
ともかく、親友の死を受けて僕が感じたことは「人が死んだら、その人とは話せない。」ということだ。
ここで話は現在に戻る。
大学にいて、よく僕は憂鬱になるし、死にたくなる。
大学の友人たちもよくそんなことを聞く。
やっぱり、頭を使って、感覚と思考を鋭くすると、心が細い針のように洗練されて、脆く折れやすくねじ曲がりやすくなるのだと思う。
大学の勉強は難しい。考えてもわからないことが膨大にある。
解けないテスト問題もいっぱいある。
僕自身は点数とか進度とかになるべくこだわらないように考えてるが、テストの点数が悪かったら落ち込む。
ゼミがうまくいかなかったら落ち込む。友達がずっと先(に見えること)をやっていたら落ち込む。何か嫌なことを言われたら落ち込む。自分と対話して、うまくいってなかったら落ち込む。
大学は本当に面白いこと、楽しいことがいっぱいある。でも、辛いこともいっぱい感じた。
真面目な人、繊細な人に限らず、は落ち込みやすい。
きっと誠実になっていて、苦しんでいる人が多いのだと思う。
ここで怪しい宗教なら苦しみから解放するならなんたらとかいうのかもしれないけど、いや実際真面目に苦しみに相対しているのかもしれないけど、まあ苦しみをスグ取り除くなんて無理だ。
それで兄と話して、生きている人間からはわからないが、究極、極論言ってしまえばきっと死んだら楽なんだろうなとはなんとなく類推できる、と二人でいっていた。
生きてて楽しいことはいっぱいある。でも辛いこともいっぱいある。
で、辛いことの方が印象に残りやすいし、辛いことは連続しやすい(と辛い状況の時は感じる)。死んだら辛いことはなくなる?のかも。
楽な方がホモ・サピエンスとしてはいいのかな。なので死を求めるのは本能のひとつ何かと思う。
で、外的にせよ内的にせよ実際死ぬとどうなるのか?
主観的にはわからない。死んでない人にとっては、死んだ人とは話せない。
自殺をやめさせるセリフに「親が悲しむ」とかあるが、まあそれはひとつの正解としても、本当にそうか疑うとわからんので、過度な一般化を避ける為に僕だけが思うことを書くとすれば「私はあなたと話したいので、死なないでくれ」ということだ。
今、僕はだいぶ友人に恵まれている。よく話す人もちらりと話す人も、ほぼ全て、というか全て、尊敬している。
尊敬している友人とはもっと話したいし、何を思っているのか聞きたいし、アホなジョークを言いたいし、文学、映画、数物生化地学、法律、教育、経営、お金、哲学、ジャズ、認識、論理、お酒、恋愛、音楽...etcの話がしたい。
結論としては、よく鬱になっている友人たちは、とにかく死んで欲しくない。生きていてほしい。僕がもっと、あなたと話したい。
あんたと話すことが、絶対重要で、もし死んじまったら話せないので、とにかく僕があなたと話したいという願いひとつにおいて、生きてくれ。個人的な願いです。